はじめに:「性を処理するという虚しさ」
夜、家族が寝静まったあと。
ふと湧き上がる性欲を、静かに、誰にも知られずに“処理”する。
──そんな習慣が、いつから始まったのかは思い出せない。
もはや当たり前になった“1人の時間”。
でも、処理するたび、どこか虚しさが残るのはなぜだろう。
今日は、そんな「処理の性欲」に伴う“感情”について、静かに綴ってみたいと思います。
「欲求の処理」が日常になった僕たち
仕事や家事、子どもの世話に追われる毎日。
セックスレスになって久しい我が家では、「性」は皆無である。
だからといって、欲が消えるわけではない。
人として当たり前の“欲”を、自分で処理する。
それは別に恥ずかしいことではないけれど…
処理するだけの行為は、やがて“機械的”になる。
快楽はある。でも“共有”がない。
終わったあとに、深いため息が出る。
羨望という感情
昨今はSNSを開けば、他人の夜を感じさせる投稿が流れてくる。
狂ったような快楽に身を興じる男女、そしてその満足感を語る女性──
そうしたものに、つい心が揺れる。
「いいなぁ……」と、思ってしまう自分がいる。
誰かと“欲望を共有する”って、やっぱり羨ましい。
抱きたい、求められたい──
そんな気持ちが、胸の奥にしこりのように残る。
僕は何を欲しているのか?
僕が求めているのは、性的な刺激だけではない。
「自分が“男”として、必要とされている」感覚。
「あなたがいい」と言われる、その感情。
つまり「承認」なのだと思う。
処理する性に欠けているのは、まさにそこ。
ただ“出す”だけでは、心は満たされない。
おわりに:「処理」と「渇望」のはざまで
もちろん、自慰行為を否定したいわけじゃない。
それは、自分の心と体を守る大切な手段でもある。
でも、その先にある“渇き”を無視し続けてはいけない気がしている。
「なぜ、こんなに虚しいのか」
「本当は、何を求めているのか」
それを丁寧に見つめることで、何かが変わるかもしれない。